昭和四十六年四月十六日 朝の御理解


X天地書附 「生神金光大神 天地金乃神一心に願 おかげは和賀心
にあり 今月今日で頼めい」



 天地書附の真意というか、解釈という、というのではなくて、いよいよ信心を進めて参りましたら、ここだけに絞られてくるのじゃないかと思われますね。天地書附だけにお道の信心は、天地金乃神様と生神金光大神の言わば合作とでも申しましょうか、そこから金光教という信心、宗教が生まれたと言って良いでしょうね。
 天地金乃神様と生神金光大神、いわゆる教祖金光大神との間から生まれて来る合作。そこで天地金乃神という方が、おかげを握ってござるというか、どのようなおかげでも持ってござる。また、おかげは人間氏子の上に、これは人間氏子だけではありますまい。まあ生きとし生けるものの上にということでしょうね。
 言わばおかげは降るように下さってあるのだけれども、その訳を知らず、難儀な氏子が、おかげになっていない。幸福になっていないというところから、この方のように実意丁寧神信心を致しおる氏子が、どうぞ取次ぎ助けてやってくれという神頼みの中から、天地金乃神様のおかげをおかげとして知り、またはそれを頂いて行けれる道が生まれて来る。それが金光教であります。
 そこで私は思うのですけどね、天地の親神様というお方は、いわゆる天に任せとこう仰る。お任せする生き方を体得すること。天地金乃神様にお任せし切ること。
 そしていわゆる生神金光大神の生きられ方、その金光大神の生きられ方が、私どもの生きられ方に移されるというか、生神金光大神の生きられ方を、神習うというか、神習わせて頂くというか、もちろん教祖様の生き方は、百年頑張ったところで出来まいと思われますが、そういう生き方にならせられる、ならせて頂くんだという決意とでも申しましょうか、そしてそれに向かってただ精進をするということ。
 金光大神の生き方を、私どもの生活の上に現して行くという、それが人間の正しい生き方であり、人間が本当に幸福になるための行き方ということを分からせて頂いて、生神金光大神の生きられ方を、私どもの生き方の上に、生き調子の上に体得して行く、覚えて行くという行き方。
 そこで私は立教神伝なのですけども、いわゆるこの幣切り境にと金光大神に神頼みなされた。そこから天地金乃神の助けられることになられ、金光大神も助かられることになられ、その助かられ方を私どもに取次いで下さる、そこに神の願い、神の悲願というものが掲げられてある。
 だからこの立教神伝というのは、教祖お一人に下されたものではなくて、教祖の神様がです、こういう建前、生き方でおられるのですから、これは金光様の御信心を頂くものの全てがです、この立教神伝にある内容を、自分たちの信心の内容としておかげを受けて行きさえすれば間違いないということになる。
 ところがなかなか、私どもには我情我欲がないようであって、なかなかそういう訳には行かん。死んだと思って欲を放してというような素晴らしい境地が心に開けてこない。そこで御取次を頂いて、私どもは日々信心の稽古をさせて頂くことになる。これだけ沢山の御教えがあるのでございますけど、その御教えを忠実に、私どもが行の上に現して行くならば、結局はこの天地書附にあるところの、同じ「生神金光大神
 天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり」と願わなけりゃおられん。またそれが身に付いてくるということになる。
 ところが、私どもはその御教えを和賀心に絞りきらん。全ての教えを、いわゆる和賀心にです、天地書附にある和賀心をです、どのような素晴らしいお話でも、御教えでもです、もうここんところに答えは出てくるのですけども。そういうふうに絞らずに、それぞれ得手勝手に、いわゆる人間は身勝手な、身勝手に流れやすいものである。教えを聞けば、それこそ血の滴るような教祖様の御精神を頂かれるのだけれども、その語句、その教えの言葉、語句だけを覚えて、それを自己弁護の材料にしておる。人間は得手勝手なものである。教えを結局自分流に頂いてしまう。
 それは自分流に頂いても良いでしょう。良いけれども答えはです、だから和賀心ということになっていないとするならです、も少し言うなら、それがおかげにつながっていないならです、どんなに素晴らしいそれが御教えを理解付けて、自分で色々わかったに致しましてもです、それは本当のことではないということになる。
 教祖の御信心、もう本当に頂かせて頂くことになればです、教えそのものが血になり肉になり、触れば温かみを感じ、血がほとばしる内容を持っとるものであるけれども、それを自分勝手に頂いて、それを自己弁護の材料になって、それを詳しくなっても、信心は長かっても、和賀心にもつながらなければ、おかげにもつながらないというようなことにしているように思う。
 昨夜皆さんに聞いて頂いたことですけども、今度御本部参拝で、度々ですけども、沢山な、ここに積んでいる本の全部があちらで頂いた。本部で頂いてきておる。私があちらへ参りましたら、お道の御本の新版の全部を買わせて頂くことにしている。今度もやはり五、六冊新版がございましたが、それとこれと合わせると、私の既版の半分を持って行っとりますけれども、もう沢山のこと。それを見ただけで、私は疲れるような気が致します。
 
 この頃は読んだことはない、買うてくるだけで、またもろうてくるだけですけども。それがいわゆる、その中から和賀心に絞ってあるというものを余り見ないんです。成程素晴らしい文章で、言葉で綴られております。成程金光様の信心ちゃそんなもんかなと分からせて頂くように難しい、また容易う説いてあります。
 天地金乃神様の全てといったようなタイトルで厚い本が買いとられますが、ちょっとページをはぐらして頂いたら、とりわけサラリーマンの方達にといったようなことが書いてある。もう読む気がしなくなった。題そのものは素晴らしいと思ったんですけど、一枚目のところに、サラリーマンの方達に向くようにというかね、書いてある本らしいんです。サラリーマンであろうが、百姓であろうが、商売人であろうがです、やはりおかげを受けなければいけんのです。
 ですから、そのおかげを受けなければいけないことも、もう今日はそれで申しますところに絞られて、例えば合楽の御理解が素晴らしいというのは、いつの御理解を頂いてもです、結局は和賀心に絞ってあるということです。「この方の道は、喜びで開けた道じゃから、喜びには苦労させん」と、どのようなことからでも、いかにして喜べるようになるかと。または、そのために修行とはということになっておる。
 ですから、沢山の本を読んだからといって詳しくはなっても和賀心につながらない、おかげにつながらないとするならです、何も分からんなりに、馬鹿の一つ覚えのようにです、そのこと一つに焦点を置いて、信心の稽古を励んだら良いということになるのです。
 私は昨日の朝の御理解の中に、しかし本当に神様って、まあ見透し聞き透しだなあと思うた。昨日は山吹の花の御理解を頂きましたね。[山吹の
 筧で足を
 洗いけり]これは以前に頂いた御教えです。一杯山吹の花が咲いておる。そのところに谷川からひいた筧、そこのところで足を洗っているという情景の句なのですけど、御理解頂きますと、山吹というのは、花は咲くけれども実りがないという、折角信心さして頂いて、おかげは頂いても、それが実にも徳にもならんなら馬鹿らしい。こんな馬鹿らしいことはない。
 そこで一つ本気でお互いが足を洗うての信心にならなければならないと。足を洗うということは、例えば遊び人達がまともな生活に入る。仕事に就くという時に申しますね、足を洗ったとこう申します。いわゆる生き方が全然変わったと言われる程しのおかげ、神様が絶えず私どもにそうあってくれと願われる。それこそ頭を下げて頼まれるように謎を掛けて下さる。けれどもその真意を探ろうともしなければ、それを聞こうともしないところにいつまでも猛武者とでも申しましょうかね。
 私は本当に昨日の御理解を頂いて、脇の下から汗の出る思いがしました。だから昨日一日そのことばっかり考え続けた。[七重八重花は咲けども
 山吹の
 蓑一つだに
 なきぞ悲しき]太田道観の古い話の中に出てくる詠なのです。それを聞かせて頂いて、道観が非常に強い武者であった人が、翻然一意志して、文武両道にわきまえた立派な大将になったというお話。武士は強うさえあれば良いという生き方、いわゆる学問を身に付けなければ駄目だということがわかったという意味である。
 私達がそうですね、もうおかげさえ頂けば良い、力さえ頂けば良いということではいけない。それこそ花だけではいけない。花ではやはり実る花でなければいけない。と言うて、私どもは花はいらんということではない。これは私の信心性格ですけども、花も欲しいけれども実も欲しい。もう私一代の場合は、花は咲かんでも良い、子供達が実を獲ってくるれば良いといった具合では、私は自分の心が許さん。私の時代に花を咲かせたい。しかも実の収穫もしたいというのが昨日の御理解でした。
 それから御祈念が終わって、御教えの昨日の御理解が終わって、いつもの吉井の熊谷さんと波多野さんがお参りになりますが、一枝の山吹の花をここへ持ってこられたのです。「今朝方、家を出ろうとしましたら、何か山吹に惹かれて一枝折ってきました」と、根元を綿に水を含ませて、紙で包んで、ここへ持ってこられるんです。今日私が太田道観にならんならん。今日、山吹の御理解があるとかないとかそんなことは全然知っちゃいない。けれども、しかも御結界にその一枝の山吹の花を持って見える。
 これ皆さんに聞いてもろうたんだけど、これは第一大坪総一郎、お前自身が今日太田道観だぞと。お前が悟らなければならんことがありはせんかと。よく胸に手を当ててみよと。神様はいつもこのようにして謎を掛けておられるのだけれども、それを解しようともしないことがありはしないか。もうそれこそ、それこそ皆に聞いてもろうたけど、これは皆のことでなく、私自身のこととしてです、脇の下から汗の出る思いがして、神様にお詫びをさして頂きよったらね、それこそああいうお相撲さん、見たことがないような肩のこんなにいかった、絵に見るような横綱を張った関取が、こう手を広げておるところを頂いた。土俵の上で。
 まあ私はそれを頂いて、それを頂いてなかったら、これが私が目指さなけれりゃならない、やはり相撲取りといえば力持ちということですから、こういう力を受けなけりゃいけないと言うのだけれども、私は昨日御心眼を頂いて、山吹の花を、その波多野さんから一枝御結界に持ち込まれて、頂いたそのお相撲さんを見ていよいよ思わせて頂いて、恥ずかしいことだと思うた。
 成程私は誰よりも、私は我情がない、我欲がないと自分で思っていた。だから、力もそれだけ力を受けておると思っていた。ところがそれはね、相撲さんのような力であった。相撲さんの力を何に使っておるですか、やはりショーであります。見せ物なんです。私は本当に昨日ばかりはガクンと来ました。
 昨日ばかり、お前の力自慢は、例えば幹三郎の病気の時なんかでも、これ程しの素晴らしい心の状態というものは、自分ながら何時開けてきたであろうかと。どうしてこういうことを自分の身近なことの中に頂きながら、ビクともせんで済むだろうかと。自分でほれぼれするぐらいに実は思うたんです。
 それは横綱がただショーのために、見せ物のために、言わば励んだ、作った力であり、または鍛えた力なのである。土俵上で皆に見せるための力なのである。私の力というものは、皆さんに言わば見てもらう。だから皆さんもこういう力を受けにゃ、と言うてそういう力も付けも切らなければ、与えもきらん。自分だけが土俵上で、私はこのような力持ちだと言うておるような私ではなかろうかと、昨日は思わせて頂いてね、それこそ脇の下から汗の出る思いが致しましたが。
 そして私がね、どういうようなことにならせられたらです、本当に人が助かることさえ出来たら、だれも知らんでも良い、力を見せぶらかさんでも良い。黙って人の難儀なら難儀を黙って持たせて頂けれる力というものが、頂けるであろうかと思わせて頂いて、昨日は一日、言うならば、言うことも思わせて頂くことも、このような思い方は、腹だけにしまえてしまう思いではなかろうか。こういう生き方は桜の花のような生き方ではなかろうか。信心ではなかろうかと。
 果たしてこういう思いが、実になるような、徳になるような、力になるような生き方になるであろうかと。もうその都度都度に、それはお便所に入らせて頂いても、お風呂に頂かしてもらうにしても、お食事頂かせて頂くことにしても、確かにお話しさして頂くにしても、それは心の中に思わせて頂きながら、昨日は一日過ごさして頂いた。
 昨日思うてみると、私の手洗いに行くところの洗面所のところに、それこそ七重八重咲いておるところの八重咲の山吹の花がさしてあった。そして昨日の朝の御祈念にそのことを頂いたから、昨日のお話にならせて頂いたのですけども。波多野さんが持って見えた一枝の山吹というのは、一重咲きの素朴な山吹の花であった。ああもう私が本当に七重八重咲いとらんで良かったと思うた。おかげですね。
 まあ現在のおかげというのはです、ひょっとすると山吹の花のように、私一代のおかげに終わるのじゃなかろうかも知れなかった。けれども、よう気付かせて頂いた。もう力さえ強うなりさえすりゃ良いと思うた。技だけ覚えれば良いと思うとった。それはどこまでも土俵上に立つ関取のような力であったり、技であったのであっては、ただ人が「ホー」と言うてびっくりするだけである。成程神様やなあというだけであった。それが後に残らなかったら、それはもう本当に自分の信心こそは後に残るんだ、孫にも残るんだ。自分自身があの世にも持って行け、この世にも残して行けるんだとばかり思うておった信心がです、結局は根底から覆される思いがした。
 それこそ山吹の花を持ち込まれて、それこそ脇の下から汗の出る思いであり、そのことを神様にお詫びさして頂きよったら、今申しますような、土俵上の横綱を張った大きなお相撲さんが、こう手を広げているような姿を見てです、まるきり私の力は見せ物のような力であったというようなことに気付かせて頂いて、改めて私はね、立教神伝そのものをです、これは金光大神だけではない、私どもの上にも、ここのところの立教神伝を、それこそよくお話しして、世の中の難儀な氏子が取次ぎ助けられて行くことのために、私自身がそこのおかげを受けなければならない。これは教祖金光大神に伝えられたのではなくて、私どもの上にも伝えられておるものである。でなかったら、本当のいわゆるまともな金光教の信心とは言えないとまで私は思い清めさせて頂いて、まあ天地書附のところを頂いた。
 人間が幸福になって行くためにはね、全てが条件が揃わなければならん。まず健康、まずお金、お金もいくらあっても足らん程必要なのだ。健康も限りなく健康のおかげ頂きたい。だから、私の今までのような調子でです、健康を頂き、お金をおかげを頂いておったんでは、それこそ山吹の花のようなおかげにしまえておることであろうけれども、昨日を境に、私の信心が方向が少し変わってきた。
 昨日その時に書かせて頂き、先程申しました、「人間は身勝手に流れやすいもので、教えを聞きながら、血の滴るような精神を頂かずして、その語句を覚えて自己弁護の材料にする」というふうに書かせて頂いたが、これは私自身のことだと自分で思う。これはもっともっと本気で、生神金光大神の信心を頂くためには、生神金光大神が天地金乃神様からご依頼を受けられたこの立教神伝を、私自身が頂いた思いで、いよいよ本気で信心の稽古に打ち込ませて頂いて、いつの場合でも、どんな場合であっても、答えが和賀心という答えにつながっていなかったならば、またはそれがおかげにつながっていなかったならば、それはおかしいと思って、一心に願わして頂く信心。今月今日でいよいよ頼まして頂く信心。
 私の信心は山吹の花のような、花だけにつながっておるようなことではないだろうかと。言うこと、行なうこと総ての中にです、そこのところをまず自問自答しながら、自重しながら、信心に本気で取り組まして頂かなきゃならんなということを頂かしてもろうたら、今日の天地書附が、日々唱えさしてもろうておる天地書附が、新なものとして、言わば触れば温かみを感じ、突けば血が飛び出る程しの生々しゅう感じて、今日天地書附を頂かして頂いたということは、有難いと思わして頂き、皆さんもどうでもおかげを頂かしてもらわなければならない。
 それこそ花も実もあるおかげを頂いてもらわなければならない。ただこうやって頂いておる日々のおかげは、果たして実になるようなおかげであるかと思い、頂き直さしてもろうて、おかげを頂かんと、本当に山吹の花のようなことになるために本気でです、これはもう皆さん、発表できない程に恥ずかしいことばかり、昨日お気付き頂いたんですけど、から言葉になりませんけど、私のただ見せ物的な力から、本当な意味においての神様が喜んで下さる神様の片腕にでも、片足にでもなれるような力というものは、お前のここんところが改められ、ここんところが直さして頂かねばといったようなことを頂きましたが、本気で私は足を洗わして頂いたような信心というか、[山吹や筧で足を洗いおり]
 筧の水はいつも、もう流れに流れ来たっとるのでありますから、いよいよ尽きぬおかげを頂かして頂くために、本気で一つ足を洗うて回れ右をするようなおかげを、改まりをさしてもらわなければならないなと。そしてからの天地書附でなからなければならんとこう思います。
 ただ山吹の花的なおかげを願うため、頂くための和賀心ではなくてですね、ただ今頂きますような意味においてのおかげのための天地書附である。「生神金光大神
 天地金乃神
 一心に願え
 おかげは和賀心にあり」
 天地の親神様はもう与えに与えてござる。その与えに与えてござるおかげに、私どもがどういう姿勢で頂くか、その神様の心に委ね委ねる心を頂かしてもらうと同時に、生神金光大神の生きられ方、それこそ地に這うたような、這うたような信心、泥のような信心、金光大神の生きられ方が、私どもの生活の上に、生き生きと現される信心。そこに天地の親神様のおかげが受けられることになる。または、お徳を受けられるようなことになる。
 お道の信心は生神金光大神と天地金乃神様の合作だ。そこから生まれたのが金光教だ。してみるとやはり、私どもは天地の親神様の心が分かると同時に、生神金光大神の心を、精神を悟らせてもろうて、その御精神を体得して行くことに専念して行かねばならんことになるのです。どうぞ。